悪しき因縁に振り回されないために、無意識に悪しき因縁の行動を発動させる引き金を知る

必要とされる立ち位置

「自分の居場所」ってよく言われますが、仕事上や友人同士、恋人同士、親子などの家族、知人・友人等、様々な場面で自分が必要とされている事が実感できる立ち位置です。では、そんな立ち位置において「あれ?もう前ほど自分は要らない?」と感じる場面ってあると思いますが、そんな時、はたして自分はどんな行動をとるのでしょう?。おそらくもっと必要とされるような努力をすると思います。これは「どれだけ必要とされたか?」だったり「どれだけ愛されたか」に対する努力で、簡単に言うと「愛されようとする努力」になる訳です。
ここでは、この考え方や行動を深く探ってみようと思います。

本能に組み込まれている防衛本能

「赤ちゃん還り」と言う子供がとる行動があります。これは弟や妹が生まれると、今まで自分に向いていた親の注目度が生まれたばかりの赤ん坊に向けられるようになります。そうすると自分に対する注目度が減った、愛情が減ったと感じ、生まれてきた時へ戻れば又親の注目度が自分に向くと本能的に思い、そしてその行動をとると言われています。親へのアピールは生きていくうえでとても重要なことです。「赤ちゃん還り」と言う愛されようとする努力は直接は関係していませんがよく似ているのは確かです。なのでもしかすると愛されようとする努力は本能的な行動なのかもしれません。そして、ここで注目するのは自分への愛情が減ったと感じる事、「愛の減少感」が引き金になっている事です。

「愛の減少感」の愛って

では愛って何なのでしょう。色々調べてみると愛には種類あるようで。
・「フィーリア」 φιλία philía 隣人愛。友愛。
・「エロス」 έρως érōs 恋人等、性の愛。
・「ストルゲー」 στοργή storgē 家族、親族に対する愛。
・「アガペー」 αγάπη agápē 真の愛。(無償の愛)
以上の4つになるようです。
アガペーの真の愛とは、神様が私達を思われている愛の事だそうで、スケールが大きすぎて実感がつかみにくいですが、無償の愛と考えると、何となく理解できると思います。そう考えると家族・親族愛のストルゲーは無償の愛に近いと思うのでアガペー寄りの愛情なのではと思います。そう考えると何か見えてくるものが有りました。それは、「フィーリア」で愛情を知り「エロス」で学び「ストルゲー」で愛情の理想である「アガペー」の疑似体験をし「アガペー」を知ると言う形です。しかし、エロスにはとてつもない大きな課題が突き付けられます。それは「見返り」と「快楽です」。とても厄介な課題です。

エロスにおいて「見返り」は、愛情の測り。

恋人同士や夫婦間の愛情はエロスに分類されています。皆さんがイメージされる通り性に繋がる愛情で、ほとんどの人が見返りを求めてしまう愛情でもあります。では何故見返りを求めるのか。それはこの「見返り」こそが「自分はどれだけ愛されている?」の測りになっているからだと思います。「以前のお前、あなたはもっと~だった。」と言う言葉は「見返りで測った結果、愛情が減少した」と判断し出た言葉なのですね。そしてエロスにおいて「見返り」と言う表現は心と体の二通りあります。相手の事を思いやる心と、大切な人との子孫を残そうとする本能的な事、そう、SEXという体の表現です。相手を求め合うと言う行為ですが、そこには快楽と言うものが付きまといます。単に快楽を求めるSEXにはエロスと言う愛は存在しません。お互いを求め愛情を確認し合うはずなのに、人は快楽に惑わされ、そこに溺れてしまいがちです。では何故そこに快楽があるのでしょうか。SEXが「自分はどれだけ愛されている?」の確認行為であるのならば、そこでの快楽は二人を一つにする魔法のような感覚を経験する事になり、より一層相手を思いやる愛情に変化します。人を愛する事の素晴らしさを知り、愛情の奥深さを学ぶことになるのです。しかしその快楽には落とし穴が有る事に私達は気が付くべきでしょう。快楽を得ようと、人は人すらも殺そうとするのですから。

理性を持つ人として「愛の減少感」の危険性を説いた人

人は愛情の減少を感じると同時に様々な感情に襲われがちです。小さな疑いが生まれ、次に大きな不信感となります。その不信感は負の妄想を描かせ、自尊心を駆逐し、場合によって誤解や嫉妬・妬み・嫉みヘと繋がり、憎悪となります。人が人ではなくなるのです。
この「愛の減少感」の危険性を説いた人がいました。私は無宗教ですが、日ユ同祖論で聖書を読む機会が有りました。驚きですが、それはイエスキリストです。
新約聖書ルカの福音書(15:11 – 32)の中に「放蕩息子」と言うキリストが弟子たちに説いた、たとえ話があります。

11 また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。
12 弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。
13 何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった。
14 何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。
15 それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。
16 彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。
17 そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。
18 ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。
19 もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』
20 そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。
21 息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』
22 しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。
23 それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。
24 この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。
25 ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。
26 そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。
27 僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』
28 兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。
29 しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。
30 ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』
31 すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。
32 だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」

解釈は様々です。

ここで注目すべきところは、父は分け隔てなく愛情を注いでいるが兄はそうは思わず、一身に受けていた父の愛情が放蕩の限りを尽くして帰って来た弟へ向いたと言う事に対する「愛の減少感」である事です。 キリストは弟子たちにこの例えを説いて注意喚起しますが、残念ながら後にキリストは「愛の減少感」にさいなまれたユダの裏切りに会い十字架に掛けられる事になります。

視点を変えると見えてくる大切な事

ここまでは「愛の減少感」から来る「愛されようとする努力」の危険性を考えてみましたが、今度は反対の視点に立ってみましょう。日本のピアニストでフジコヘミングさんが言った言葉で
”「どれだけ愛されたのか」ではなく「どれだけ愛したか」が大切”
と言うのがあります。私はこの言葉を聞いたとき妙に納得させられました。言い換えてみましょう
”「愛されようとする努力」ではなく「愛しようとする努力」が大切”
と言う事です。先ほどとは真反対の視点に立つわけです。そこには「愛の減少感」が入る隙間はありません。自分が愛を提供する側だからです。なので見返りも必要ないと言う事になります。 ん? これって・・・
 気が付かれましたか?
これ・・「アガペー」無償の愛 の視点なんだ。 なるほど 書いてる私が納得。

愛は素晴らしい事

人を愛する事は諸刃の剣であり、見返りを求めてしまう事が負の連鎖の入口となり、見返りを求めない愛「アガペー」こそが愛の本質だと言う事がわかりました。素晴らしいと思います。その愛「アガペー」を実感出来るのは家族を思う事で出来き、特に子を持つ親としては身に染みて実感できるでしょう。最終的に愛をどう学び、理解し、実践して行くのかがこの世の中を導く鍵ではないでしょうか。それが人類に課せられた神からの課題であると私は思います。

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